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Abstract: TRACES OF A GOSPEL WRITING IN 1 CORINTHIANS: REDISCOVERY AND DEVELOPMENT OF ORIGEN’S UNDERSTANDING OF 1 CORINTHIANS 4:6B

2010 PhD Dissertation Sustained at the University of Wales Trinity Saint David (abstract) The identity of the document referenced by the saying quoted in 1 Corinthians 4:6, ‘Nothing beyond what stands written’, has been a source of intense scholarly debate … Continue reading

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Response to Dr. Mark Jones’ “Charleston: Forgiveness Without Repentance,” REFORMATION21.ORG”

Reply to an article posted: http://www.reformation21.org/blog/2015/06/charleston-forgiveness-without.php . I basically agree with Dr. Mark Jones on the main points he is making, but I find his distinction between forgiving guilt and harm, and assertion that one can only sin against God to … Continue reading

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Translating the Bible Into Japanese, New Horizons October, 2010

Translating the Bible into Japanese Click above for the New Horizons article

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Letter to the Editor of New Horizons re. Birth Control

The text below (with very minor corrections) was originally submitted to Tom Tyson, editor of New Horizons magazine in the late 1990s, during an ongoing debate about the legitimacy of birth control use for Christians. He later published it as … Continue reading

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博士論文の日本語の要約。Japanese Language Summary of University of Wales Dissertation

dissertation_overview_in_japanese_28-jan-2013

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Psalms, Hymns and Spiritual Songs: Does Paul allow hymn singing, or only (exclusive) Psalm singing — a Response to the RPCNA tract

By Writing “Psalms, Hymns and Spiritual Songs,” Did Paul Really Mean, “Psalms, Psalms and Psalms?”Attached is a tract I wrote in reply to the tract published by the Reformed Presbyterian Church of North America, ‘Diagram Defense of Psalmody: What Did … Continue reading

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「異教の社会への改革派的宣言のための戦略」

「異教の社会への改革派的宣言のための戦略」 日本キリスト改革派教会東部中会神奈川伝道協議会、2012年3月11日 OPC日本宣教師 ステューワート・E・ラウワ それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。 たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。 川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。 神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。 国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。神が御声を発せられると、地は溶けた。 万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。 来て、主のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた。 (詩篇46:2-8、新改訳聖書、以下特別に明記しない限り同じ) 一年前の今日、日本国が、そして全世界がまさにそのような恐るべき「主の御業」を、見つめました。本当にそれは日本列島にもたらされた、現代史の中で最大の「荒廃」だったかもしれません。神様の御恵みによってその都、イエス・キリストの教会は、5節にありますように不思議なほどに支えられました。日本キリスト改革派教会には人命が失われることはなく、財産への損害もほとんどありませんでした。そのゆえに、私は神様に感謝してやみません。 しかしながら多くの方々、ひょっとしたら全ての方々と同じように、神様のあの力強い御業によって私は、この国にどうやって神様の救いを宣言するべきか答えを探すために、神の御言葉を再び調べざるをえなくなりました。この発表はその問い、つまり日本のような異教の多元主義的な社会にどうアプローチすべきだと、聖書自体が言っているかという問いに、答えようとするものです。 導入――この発表の焦点 始めに、三つの異なったタイプの社会、そのうち二つは「多元主義的」と描写することができると思われますが、それらを区別したいと思います。そのような社会は勿論、純粋な形態では少なくとも今日では存在していませんが、それでもこれらの三つの種類の社会を同定し区別することは、理論的に役に立つでしょう。 その第一のものをここではキリスト教的社会、第二のものをキリスト教後の多元主義的社会、第三のものを異教的多元主義的社会、と呼びます。中世から宗教改革期を通してほとんどの、もしかすると全てのヨーロッパの国々は「キリスト教的社会」と分類されえたでしょう。後に合衆国として知られることになった国も、おそらく17、18世紀には、その範疇に振り分けることができたでしょう。しかしながら今日では、アメリカ合衆国と多くのヨーロッパの国々は、第二のグループに振り分けるのが一番良いように思われます。つまり、キリスト教後の多元主義的社会なのです。日本は最後の範疇、すなわち異教的多元主義的社会の典型かと考えております。有史時代を通して日本は常に、異教の宗教によって支配されてきました。それでも、時々キリスト教徒たちを迫害してきたのに比べると、日本は現在では驚くほどキリスト教(と他の宗教)に対して、寛容です。ゆえに、日本は現在でもまだほとんど全体的に異教的である一方で、真に多元主義的です。 三つのタイプの社会へのアプローチ キリスト教的社会 さて、理想化された範疇1の社会(キリスト教的社会)を仮定しますと、ほとんどの人々がすでにキリスト教信仰に何らかの形で従っていて、全ての人が聖書を真の神の言葉として受け入れています。そのような社会では改革派の宣教師の中心的な任務は、改革派信仰をあの神聖な基準、聖書に真に忠実な唯一の信条的な立場として、奨励することです。 キリスト教後の多元主義的社会 キリスト教後の多元主義的社会にアプローチすることは、――その父祖たちの信仰の記憶をまだ失っておらず、全体的にひどい異教的生活にまだ戻ってしまっていないと想定してですが――聖書に基づいて、また世俗化したあるいは新異教的世代に、回心して父祖たちの契約に戻るように奨励することによって、ある程度はまだ可能であります。そのような社会では、平均的な人の聖書の神様との最も最近の正式な関係は、一世代かひょっとしたら二、三世代遡るものです。イスラエルが神の律法を失ったと思われたとき、(「これらの忌みきらうべきことを、彼以前にいたエモリ人が行なったすべてのことよりもさらに悪いことを行な」った)マナセとその息子アモン(列王記一、21:11)の後、イスラエルの子らをイスラエルの神に呼び戻そうとした旧約の預言者たちのように、キリスト教後の多元主義的社会における説教者たちは間違いなく、棄教した仲間たちを父祖たちの契約に呼び戻さなくてはなりません。 異教的多元主義的社会 次に第三のタイプの社会、異教的多元主義的社会について考察しなくてはなりません。日本はそのような国々の典型です。古代の異教主義がいまだに支配的ですが、それでもキリスト教も広い意味での社会と文化の一部となることが、許されています。私は改革派的戦略、すなわち聖書的な戦略を主張したいと思います。と言いますのも、そのような社会にアプローチすることは、キリスト教後の、あるいはキリスト教的社会にアプローチすることのために聖書が示唆していることとは、全く異なっているからです。どちらにしてもこの論考の焦点は、聖書から「異教的多元主義的社会にキリストの福音を伝えるための戦略、または諸戦略」を探求することです。 キリストの福音を異教的多元主義的社会に伝えることへの使徒的アプローチとノアの契約 概観 この発表の主題を、キリストの福音を日本のような異教的多元主義的社会に伝える改革派的戦略、或いは諸戦略を見つけることと定義いたしましたので、今からは使徒的な宣教者たちがそのような社会に、どのように近づいていこうとしたかを見定めるために、聖書を調べたいと思います。 考察のために直接関係のある聖書の箇所を選ぶに際して、ユダヤ人たちに伝道する、まして「神を畏れる」異邦人たちと呼ばれる人たちに伝道する――ペテロがコルネリオを指導したように(使徒10章)――使徒たちの例にわたしたちの関心があるわけでは、ありません。そのような説教は、キリスト教的かもしかするとキリスト教後の社会に語りかけることに、似ているでしょう。「キリストについて聞いたことがない人たちに福音を知らせることと、同じ福音を両親や祖父の代が教会の真正の会員であったような人たちに説教することの間には、大変な差異があります」 。ここで私たちの興味を引くのはむしろ、腐敗した異教徒たち、つまり――最近の先祖たち同様――福音を一度も聞いたことのない人たちへの、使徒的宣教者たちのアプローチなのです。 そのような異教的社会にキリストを説教している使徒的な宣教者たちの具体的な例を新約聖書が記録しているケースは、比較的少ないです。しかし、数少ないとしても、ゼロではありません。思いますに、記録されている例全てにおいて、福音を提示している(か、その助けをしている)のは、使徒パウロです。このことに私たちは驚くことはありません。といいますのも、新約聖書はパウロを「異邦人の使徒」と名づけているからです(ロマ11:13;ガラ2:9、テモ一、2:7参照)。 異邦人の使徒が追及したアプローチに関してですが、異教の――神を畏れる、に対してですが――異邦人たちにパウロが説教している全ての場合において、つまりパウロの説教の内容が記録されている全ての場合においてですが、使徒は暗黙のうちにノアの契約に回帰していると我々がみなしても妥当なのではないかと、私は皆様に提起させていただきたいのです。二、三の例を見てみましょう。 腐敗した異教徒たちへのパウロのアプローチの例 例(1)ルステラにおけるパウロとバルナバ:使徒14章 使徒13章から14章に進むとき、以前の章(13:14以下)に記録されていたユダヤ会堂の聴衆に説教するためのパウロとバルナバの戦略の記録は、後の章にある異教の異邦人の聴衆へのアプローチと、明確なコントラストをなしています。 二つのアプローチを対比してみましょう。まず、一団のユダヤ人たちと神を畏れる人たちにパウロが説教する代表的な例を、ご覧ください。使徒13:16b-17において、その宣言が始まります。 「イスラエルの人たち、ならびに神を恐れかしこむ方々。よく聞いてください。この民イスラエルの神は、私たちの先祖たちを選び、民がエジプトの地に滞在していた間にこれを強大にし、御腕を高く上げて、彼らをその地から導き出してくださいました。」 これらのユダヤ人たちと神を畏れる人々(13:43)に語りかけるとき、パウロとバルナバは使徒2章におけるペテロと同じように、キリストを旧約聖書の約束の実現として提示してゆくのです。彼らは、聞いている人たちの旧約聖書についての知識と敬意の両方を、前提としているのです。 その一方で、異教の異邦人たちに説教することへの彼らのアプローチは、とても異なっています。使徒14章で、ルステラの聴衆は疑いようもなく異教徒です。このことは彼らの説教のきっかけとなった出来事から、明らかです。どうか御一緒にその出来事の記事、14章11節から13節までを、ご覧ください。 11 パウロのしたことを見た群衆は、声を張り上げ、ルカオニヤ語で、「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ。」と言った。 12 … Continue reading

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